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茶臼山高原の芝桜【豊根村】
やまエリア 事業者の声
新城市
茶菓子事業者:菓匠 澤田屋 四代目 保木井(ほきい)孝幸さん
紅葉の名所として名高い鳳来寺山は、山全体が国の名勝・天然記念物に指定されている自然の宝庫だ。また、1300年前に利修仙人が開山したと伝わる霊山でもある。山の中腹には古刹・鳳来寺があり、麓から続く鳳来寺の参道には、樹齢800年、現存するものとしては日本一となる高さ60mを誇る傘杉や、徳川家光公によって慶安4(1651)年に建立された国の重要文化財仁王門がある。そして、鳳来寺山麓には、利修仙人により発見された源泉「鳳液泉」を湯元にして古くから多くの方に愛されてきた湯谷温泉があり、宇連川の両岸に8軒ほどの旅館が建ち並ぶ。
こうした観光地である湯谷温泉付近で、和洋菓子の小売店舗を構えているのが菓匠 澤田屋(以下、澤田屋)である。澤田屋の創業は明治45年と100年以上の老舗で、代々家業で引き継ぎ、現在は四代目の保木井孝幸さん、五代目の大貴さんが経営している。澤田屋で一番人気なのが「酒まんじゅう」だ。お酒に近い独特の香りと味があり、甘いものがあまり好きでない人にも好まれる。三代目から受け継がれた麹菌を使って発酵させる古い手法で製造している。そして中にいれる餡子は初代の配合を受け継いでいる。塩加減、水加減、煮詰める時間でそれぞれの和菓子の特徴がある。いくら良い材料であってもその材料を活かせるかどうかは職人の腕次第であり、その配合は代々受け継がれたものだ。
また、澤田屋では、代々、地元に関わるお菓子を観光客のお土産として製造してきた。例えば、鳳来地域は杉の木が多いので「杉の実」、湯谷温泉にある浮石橋をモチーフとした「浮石」、長篠の合戦をモチーフとした「長篠陣太鼓」などがある。
澤田屋は、元々湯谷温泉の観光客への販売を目的に店舗を構えたわけではない。保木井家は、湯谷温泉に隣接する新城市井代地区が発祥であり、居住するこの地域で和菓子の卸売りを創業した。創業時は、甘味への需要はあったが、戦前で餡子の製造ができなかったため、貴重な砂糖を溶かして飴玉の生産を始めた。そして飴玉を木箱にいれて大八車に積み、地元の鳳来地域や現在の東栄地域で、一般の方に売ったり、地元の駄菓子屋に卸していた。大正時代には、商売は大変うまくいっていた。
戦後になり、二代目が今の澤田屋の礎を築いた。二代目は海軍に入り戦地に赴き、戦後自宅に戻って来てから、独学で和菓子を学んだ。大変勉強家であり、和菓子だけでなく、パンや洋菓子など様々なお菓子を試作して、商品を増やしていった。特に、昭和40年代から旧鳳来町の小・中学校に給食としてアンパンや焼き菓子などを卸しており、一時期は旧新城市の学校からも依頼されたほどであった。当時はガスも電気も普及しておらず、何をやるにも手間がかかり、住み込みの従業員が多い時で20名ほどいた。二代目は従業員に菓子づくりを教え、独立した人には暖簾分けするなど、人材育成にも熱心であった。
三代目は養子であったが、二代目の指導もあり、努力して庶民的な饅頭やお餅を生産した。特に1970年の大阪万博の時は、湯谷温泉が最も集客していた時代であり、澤田屋も旧鳳来町の土産品協会に入って、いろいろな土産商品を製造し、旅館に卸していた。一方、大手スーパーなどが進出して小売店の淘汰が始まり、卸す店舗が少なくなってきた。そうした時に、四代目の孝幸さんが店を継ぐという意思を示したため、四代目が修行して戻ってきたら小売業に切り替えることにして、昭和61年8月に今の店舗をオープンした。
孝幸さんは、高校まで地元の学校で学び、卒業後東京の日本菓子専門学校で洋菓子を2年間、東京の神田神保町の洋菓子店で3年間学んだ。澤田屋は和菓子中心であったため、小売業を始めるなら洋菓子も製造する必要があると考えた。修行先の洋菓子店の、「最先端のものばかりを作るのではなく、古きよきものを大事にして作る考え」に共感を持っていた孝幸さんは、鳳来地域のような田舎では商品の見た目はシンプルでもお客様に大事にされ、ほっとした雰囲気の店にする方がいいと感じていた。修行先の店長からも「いいものは続けていかないとだめだよ。うちの店は先代からひいきにしてもらっているお客様に支えられている。」と教えられたことが、孝幸さんがこの地域で小売業を始める礎となっている。小売業を始めた当初は、鳳来地域には洋菓子店がなく、地元にも喜ばれ、自分の作ったものが目の前で売れていくことを喜びとして実感した。今では、ムースや生クリームを使ったチーズケーキ、レモンパイなど洋菓子を中心に作っている。特に、レモンパイのレシピなどは、修行した店からいただいたものでずっと大事に生産し続けている。湯谷温泉に来た東京のお客様が「神田神保町生まれのレモンパイ」というお菓子をみると驚かれ、ファンになってもらうきっかけとなっている。
そして、五代目の大貴さんも四代目と同じく高校まで地元の学校で学び、東京の日本菓子専門学校を出て、横浜市の和菓子屋で修行の後、跡を継いだ。和菓子は大貴さんが中心に作っており、店頭に並ぶ和菓子の1/3に及ぶ。
山里で100年もの間お菓子作りを継承できた理由を、孝幸さんは次のように語った。『当店は従業員を雇わない家族経営であり、大きなことはできないが、お客様に対する気持ちは伝わっていると思っている。常連のお客様には、「澤田屋さんに行くと、何だかほんわかあったかいよ。」「一年に一回しか来れないけれど、澤田屋さんに入ると田舎に帰ったという気持ちになる。」と言ってもらえる。お客様一人一人と向き合った接客を大切にしていきたい。』
孝幸さんは、幼少から祖父、父母が家族一丸となり、家中がお菓子を製造する環境で育ったため、迷うことなく家業を継ぐ決意をした。孝幸さんの母は、小売店舗を始めてから、女将としてこの店を支えていた。女将さんに会いに来て、ついでにお菓子を買って行くお客様も多く、そうした接客がよりお菓子をおいしく感じさせているのかもしれない。孝幸さんの父も明るい人で、客を引き寄せていた。家族のそれぞれにファンがいることが、この地域で店が続いてきた一つの要因である。
取材時はコロナ禍ではあったが、Go to トラベルの影響で湯谷温泉は活気があり、澤田屋を初めて訪れる観光客もあった。中には、「また来ます。」といってくれる人もいた。もう一回来たいと思わせているのは、お菓子ではなく孝幸さんが受け継いできた、祖父、父母のお客様への心なのではないか。そして、その心を五代目の大貴さんにも伝えて行きたいと思っている。
今回のモニター商品である茶菓子は、鳳来寺山にまつわるお菓子である。一つは「三つ子の仏法僧」。愛知県の鳥であるコノハズクは、通称仏法僧(ぶっぽうそう)と呼ばれている。従来、日本国内では「ブッポウソウ」と鳴くと思われていた鳥を「ブッポウソウ」と名付けていたが、1935年にNHKラジオの公開録音で鳳来寺山が選ばれ、そこで初めて「ブッポウソウ」と鳴く鳥が「コノハズク」であったことが発見された。鳳来寺山は「コノハズク」の生態の解明にも寄与している山であり、澤田屋では、この鳥をモチーフに、湯谷温泉の旅館のお客様に出すお茶受けのお菓子として作ってきた。今は旅館には卸していないが、新城茶に合う茶菓子として店頭に並んでいる。そしてもう一つは「仙人どらやき」。鳳来寺山を開山した利修仙人が、松の実を食べていたという伝説をモチーフにした商品である。
モニターの皆さんには、この和菓子を食べながら自分の生まれ故郷に思いをはせていただきたい。こんなお菓子を作っている店が地元にあったのかと思ってくれるだけでいい。何年も帰っていない人に食べていただき、素朴なお菓子を売っているお店があるということを知ってもらえるだけでいい。
そして、もしこちらに訪れる機会があれば、湯谷温泉で昔のようにお湯に浸かってお茶を飲みながら和菓子を食べてもらえると嬉しい。湯谷温泉の湯は非常に質が良い。源泉が50度くらいのため、各旅館はほとんど薄めないで温泉を使っている。ほとんどの旅館は川側に露天風呂を作っており、とても風情がある。実は、イベントなどで新城市出身の方に「湯谷温泉にある店」と言っても、意外と知られていないことが多い。それでも「今度行くね」とお客様に言ってもらえると嬉しい。
後日、このインタビューの時に買ってきた、三つ子の仏法僧と仙人どらやき、そして酒まんじゅうを、休日のおやつとして家族でいただいた。
どら焼きは、栗の甘い味ともちもちの食感がすごくおいしい。仏法僧は粘り気やパサつきはなく、中の餡子がほどよい甘さでこれまたおいしい。子供の手にも収まるサイズで、家族で楽しくいただいた。
また、酒まんじゅうは、ほのかな酒の香りがして、一口食べるとふわっと酒の香りが口に広がる、初めて食べる味だ。餡子もほどよい甘さで、後味がとてもよい。平日のインタビュー中でも10個も20個も酒まんじゅうを買っていくお客様がいて、温泉郷ならではのお土産として、ファンに愛されていると思った。
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